科学の言葉

 「誰でもそれを試せます。」、「誰でも同じことができます。」、「誰がやってみても結果は同じになります。」というのは、実は『正しさ』を証明する為のとても強い言葉です。「ずるなんてしてないよ。ほら、書いてあるやり方で、誰でもできるでしょ?」、という事ですから。

 科学の言葉でいえば、「私はこう思う」という主張(仮説)が正しいという事を証明する為には、『研究の過程の透明性』を持ち『研究の結果の再現性』が保障されていることが最低限必要なのです。もちろん現象についての考察はまた別の話なのですが。


「仮説」と「定説」

 『STAP』の記事を眺めていると、時々「まだ有るのかないのか、わからないだけ」、という声を見かける事があります。『STAP』が無い事を証明できないのだから、それは有るのかもしれないじゃないか、という主張です。

 実は科学の世界では、「私はこう思う」という主張(仮説)が正しい事を証明するためには、仮説を主張した人が「他人が確認できる実験結果・検証可能な理論」を提示する必要があります。「論文」は、「私は、それが存在していると考える。それは次の事実によって証明される」、という形で、仮説を主張している人によって書かれるものです。

 科学の世界では、自分が主張した仮説が正しいもので有る事を証明するのは、それを主張した側の義務という決まりになっているのです。



 また、どんな「論文」であっても、それが自分以外の人によって確かめられるまでは、実はそこにあるのは「事実かもしれないもの」でしかありません。それは、他の人によって検証され、「仮説:まだ他の人によって確かめられていない個人的な主張」から、「定説:その主張を行った人以外によって確かめられた万人が認める事実」に変わってゆきます。

 ただし、そこにある「事実かもしれないもの」について考えるときに、注意してほしい事がもうひとつあります。それは、誰かが主張した「仮説」の正しさが証明されるまでには、とても長い時間がかかる事もあるのだ、という事です。


 例えば、物理学や数学という科学の分野では「理論が発表されてから何十年もたった後で、理論の正しさが証明された」という事が普通にあります。短い期間では、その主張の真偽が判定できないかもしれない、という可能性は常にあるのです。

 例に出した物理学や数学の場合には、提示された「まだ証明されていない仮説」が、長い時間がかかる「技術の進歩」や「議論や検証の積み重ね」によって、正しいと証明されたのだ、という事になります。でもそれとは逆に、一度は正しいと考えられていた理論が、「技術の進歩」や「議論や検証の積み重ね」によっ覆され、間違った理論として捨て去られてきたという歴史もあるのです。難しいですね。


「間違える事もある」が、ルールに従っていた場合は ・・・

 そして少し困った事なのですが、研究者も人間なので、時には勘違いも、思い込みも、願望による誤認も、起こしてしまいます。でも、科学の世界では「真面目に研究をしたけれど、間違った結果が出てしまった」事は、不注意やミスと判定されても、不正とはみなされません。私たちは、みな無謬の存在である神ではなく人間にすぎないのですから、全てに完璧な状態を求めるというはあまりに荷が重い、という話です。

 だからこそ、そういう人間の弱さから作り出される間違いを防ぐ意味も含めて、「論文」は世界に公開され、たくさんの人達の目によって判定を受けなければならないのですよね。



 念のために付け加えますが、もちろん、本人の主張が正しい事を証明する為のものである「本人が行った実験が間違っている・不正がある」とか、「本人よって書かれた論文が間違っている・捏造されている」というのは論外です。そもそもの初めから科学的な事実として提示する事は認められない、と判定され、他人が時間を使って検証するに値しないもの、として捨て去られる事になります。『STAP細胞』として発表された捏造論文のように。


 科学は「事実に基づく」学問です。そのルールは厳格なものなのです。


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